雑記

50代で出世できなかった現実。それでも、前を向くために

50代になっても役職に就けていない。
この事実を受け入れるのは、想像以上に精神的な負担があります。

社内での役職がすべてではないと頭では分かっていても、周囲の目や評価、日々の職場の空気の中で、自分の立ち位置を否応なく意識させられる場面が増えてきました。

出世しなかったという「現実」が突きつけてくるもの

会社によって制度は違えど、50代以降に大きく昇進することは現実的に難しくなります。
多くの組織では、40代前半までに課長や部長といったラインに乗れなければ、その後のキャリアは停滞することが多いのが実情です。

周囲を見れば、年下の後輩たちが次々と昇進し、役職者として発言力や裁量を得ていく。
一方で自分は、20代の頃とほとんど変わらない肩書きのまま、社内の端にいるような感覚を覚える。

「この会社での自分の役割は、もう変わることはないのかもしれない」
そんな想いが、ふと胸をよぎる瞬間があります。

表面的には変わらなくても、空気感が変わっていく

役職の有無が、日々の業務の中で露骨に差を生むことはありません。
でも、ちょっとした言動や対応から、少しずつ「見られ方」が変わっていくのを感じます。

意見を求められなくなる。
責任ある仕事を任されなくなる。
会議での発言が流される。
後輩が遠慮なくタメ口に近い口調で話してくる。

どれも大したことではないのですが、積み重なると、自分が職場で「軽く扱われている」と感じるようになります。

これは、経験した人にしか分からない感覚かもしれません。
目に見えないだけに、余計に心に残りやすいものです。

社内の飲み会も、居場所を感じにくい場になる

私はもともとお酒が強い方ではないため、飲み会への参加は昔から積極的ではありませんでした。

若い頃は、仕事の延長として飲み会に顔を出すことも多くありましたが、今は「無理に行かなくてもいい」と考えるようになっています。

飲み会の場では、年下の上司に気を遣い、後輩たちの話に合わせて相づちを打つ。
気づけば、自分は誰とも深く関われず、ただ時間とお金を消費するだけの存在になっていることがあります。

「自分は、ここにいる必要があるのだろうか」

そう感じたことが、何度もありました。

自分の時間を、自分のために使う選択

だから私は、社内の付き合いは必要最低限に留め、自分の時間を自分のために使うようにしています。

家族と食事をしたり、昔からの友人と話したり、静かに読書をしたり。
そうした時間は、誰かに気を遣うことなく、等身大の自分でいられる貴重なひとときです。

特に社外の友人は、会社の肩書きや役職などにとらわれることなく接してくれるため、気持ちがとても楽になります。

「会社の中だけが、すべてではない」
そう思えるようになったのは、自分の外に信頼できる人間関係を持てたからだと思っています。

無理に「居場所」を作ろうとしなくていい

出世していない50代の社員が社内で居場所を見つけるのは、簡単なことではありません。

でも、だからといって、無理に飲み会に参加したり、気を遣い続けたりして、疲弊する必要はないと感じています。

組織の中での役割が変わらないのであれば、自分自身の居場所を「社外」に求めてもいい。
あるいは、家族との時間、趣味や学びに使う時間の中に「自分の価値」を感じることだってできます。

無理をしてまで、社内で自分の存在を主張しようとしなくても大丈夫。
もう、そういう頑張り方をしなくてもいい年齢になったのかもしれません。

周囲の理解もまた、優しさになる

もしあなたの職場に、50代で出世をしていない同僚や先輩がいるのなら、ぜひその人に対して過剰な期待や無理な誘いをしないであげてほしいと思います。

みんながみんな、飲み会やイベントを楽しみにしているわけではありません。
その場に行くこと自体が負担になっている人もいます。

声をかけないことが、逆にその人への思いやりになることもあります。

まとめ:肩書きがすべてではない人生を選ぶ

50代で出世できなかった。
それは事実として受け入れるしかありません。

でも、その事実が、人生のすべてを決めるわけではありません。

会社の中で昇進しなかったとしても、自分の大切なものや、人との関係、日々の過ごし方に価値を見出すことはできる。
それは、どんな肩書きよりも自分らしい人生を形作ってくれるものだと思います。

これからの時間は、無理をせず、自分の心に素直に。
会社の外にも広がる、自分らしい居場所を大切にしていきたい。
そう感じています。

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